ファンという存在。
ファンを作ろう、という話。
普通に普通の生活してる人にはあんまり関係ない話じゃないかなぁ、とも思ったりするんやけど、
そうでもない。
いつも常に頭に置いてるのは、
全員に好かれなくてもいい、
ということと
たった一人でいいからこっち(自分)を見てくれてればいい、
ってこと。
前者は、
自分が何か発信したり、もっと単純に言えば何か言う時にすごく関係してて、
嫌われたくない、とか他人を軸に据えて発信をするとどうしても当たり障りのない、所謂「一般的模範解答」に集約される。
かと言って何でもかんでも思ってること口にする、ってことではないんやけど、
例えば、子供が産まれた幸せ~♪なことをSNSとか、実生活の中で発信するとして、中には
子供が出来ない人の気持ちがわかってない、とか言い出すやつおるけど、そんなこと言うてたら何も発言できんし、何の解決にもならない。
ポイントがそもそもそこじゃない感満載のやつは基本的に何に対しても一定数はいるから、
そこに無駄な配慮をしない、ということ。
だから、
例えば震災の時にあったような、
日本ざまー!みたいなやつは、
人としてどうなの?って、ってことで発信しないし、
そもそもそういうやつは敵やから過剰反応しなければいい。
で、
要はそんなことも含めて、あれはだめこれはダメっていちいち自分に抑制をかけながら、って「自分」を生きれてない気がするのよね。
長いね。
後者は逆に守りの話で、
一人じゃない感って人が生きていく上でホント大事やと思ってて、
普段はあまり思ってなくてもたまに不安になることってやっぱりあるので、
それでもキチンと向き合ってくれる人が自分にはいるんだと認識することって心のメンテナンスする時の大事な一要素になる。
孤独に耐えられる人って中々いないから、だから他人の存在って大事で、だから社会性動物なんだろうな人間て。
話戻ると、
ファン、って言える存在ってホントに有難い。
自分は間違ってないんだ、という証明にもなるし、このままでいいんだ、と思える。
でもこれって発信できないと作れないものでもあるから、それが苦手な人って第一歩が踏み出しづらい。
自分も得意ではないから、特にサシ飲みなんて活動をする。
一対多は難しくても一対一なら大体の人は発信できるのではないだろうか?
仲のいい人、知り合い、身内、そんな近いところからならやれるのではないだろうか?
自分もまだまだここから。